ローマカトリック教会の成長(世界史)
フランク王国と一緒に西ヨーロッパ世界の形成に貢献したのが、ローマカトリック教会なんだ。今回はそんなローマカトリック教会の成長についてあたってみたよ!
ローマ帝国末期
ローマ帝国末期には代表的な5つの教会があった。
- ローマ
- コンスタンティノープル
- アンティオキア
- イェルサレム
- アレクサンドリア
このなかでも、最有力はローマ教会とコンスタンティノープル教会であった。両教会は時の経過とともに対立色を強めていく。
首位権
392年、ローマ皇帝テオドシウスがアタナシウス派キリスト教を国教化。ローマ皇帝が教会を支配・保護する構図ができる。
テオドシウス没後、ローマ帝国は東西に分裂(395)。ローマ帝国は東西で二つに分かれたわけだが教会はそうではない。どこの教会が1番かという問題が出てきたんだ。
ローマ初代教皇レオ1世(位440~461)は首位権を主張。
ローマにはイエスの弟子の最高位だったペテロの墓がある。自分たちがペテロの後継者にふさわしい。我こそが「教皇」と称した。
ところが、476年、西ローマ帝国が滅亡。
コンスタンティノープル教会は、後ろ盾を失ったローマ教会をみて首位権を主張する。
ローマ教会は後ろ盾を探そうにも、旧西ローマ領にはアリウス派キリスト教(異端)であるゲルマン人ばかり。
唯一の皇帝となったビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)に保護してもらうしかなくなったわけだ。
それでも、ローマ教会は首位権を主張し続け、ビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向をみせはじめる。
ローマ教会独自の活動
修道院運動

529年頃、ベネディクトゥスがローマ近くのモンテカッシーノに修道院を建てた。
修道院は教会で働く人々を育てる学校だ。
「服従・清貧・貞潔」を中心に、「祈り、働け」をモットーとした聖ベネディクトゥス戒律を定める。西ヨーロッパにおいて聖職者の手本になるべく、キリスト教布教に貢献。
7世紀以降、この戒律はヨーロッパ全土に広まり、ラテン=キリスト教世界における修道制の基本となる。
ゲルマン布教
教皇グレゴリウス1世(在位590~604)
→在位590~604、教皇権を確立、キリスト教の伝道に貢献
- 590年、大陸伝道開始
- 596年、イングランド伝道開始
修道院運動を背景にアングロ=サクソン族や西ゴート族へ布教をすすめた(ゲルマン布教)。布教には聖像が使用される。
ローマ教会はグレゴリウス1世以降、このような伝道を熱心におこなうことで、じょじょに自分たちの仲間を増やしていったわけだ。
聖像禁止令
726年、ビザンツ皇帝(東ローマ帝国)レオン3世が聖像禁止令を発布。
イスラム勢力は偶像崇拝を厳格に禁止している。そのイスラム勢力からビザンツ帝国は圧迫され、負けている状態だ。イスラム勢力に対抗し、自分たちも神を聖像で拝むのはやめようということになった。
またこれは、もともとキリスト教が偶像崇拝を禁止していたことにもよる。
これに対して、ゲルマン布教に聖像を使用しているローマ教会側は反発。聖像崇拝論争が激化した。
ローマ教会にとって武力の後ろ盾は東ローマ皇帝しかいなかったのに、この件でそれも危うくなってしまった。
東ローマ皇帝に代わる後ろ盾をなんとか西ヨーロッパ側に立てたい。
そこで彼らはフランク王国に目を向けることになった。
732年、フランク王国の宮宰カール=マルテルがトゥールポワティエ間の戦いで、イスラーム軍から西方キリスト教世界を防衛。
こんなこともあり、ローマ教会はフランク王国と結びつきを強めていく。

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