リソルジメント・世界史
→ウィーン体制成立〜1860年代までのイタリアはリソルジメント(復興)の時代と言われる
背景
ウィーン体制下、カルボナリが蜂起したが、オーストリア軍によって鎮圧。その後、マッツィーニが青年イタリアを結成。彼らはイタリア共和国を樹立した(1849)。
しかし、ナポレオン3世率いるフランスに敗北。
他方、サルデーニャ王国、国王カルロ=アルベルトは北イタリアの領土拡大のため、1848年3月オーストリアに戦いを挑んだ。
各地から義勇軍が参加して、イタリア人の戦争という性格になるも、敗北してしまう。
サルデーニャ王国
国王アルベルトがオーストリア戦に敗北して退位。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が後継者となる。
ヴィットーリオ、自由主義者のカヴールを首相に登用。
カヴールは①内政の近代化や②クリミア戦争に参戦。
・クリミア戦争(1855)
英仏の対オーストリア戦。
ナポレオン3世がフランスの強大化を狙っていて、要請によりイタリアも対オーストリア戦に参戦。
フランスとの関係強化も狙いであった。
戦後、パリ条約で国際的地位の上昇。
イタリア統一戦争
→1859
サルデーニャ王国は1858年に、ナポレオン3世とプロンビエール密約を結ぶ。
これはサルデーニャ王国が北イタリアからオーストリアを排除する戦争の際、フランスからの支援を得るものだった。
翌年、サルデーニャ・フランス連合軍、ソルフェリーノの戦いでオーストリアに勝利。
しかし、中部イタリアのサルデーニャとの併合要求など、王国の強大化を恐れたナポレオン3世が裏切る。
フランスはオーストリアと単独講和【ヴィラフランカ条約】に踏み切った。
したがって、サルデーニャが獲得したのはロンバルディアにとどまった。
ヴェネツィアはまだオーストリア領のままということだ。
中部イタリア併合
→1860
住民投票により、サルデーニャ王国への併合が決定した。
しかし、ただでは併合できない。
プロンビエール条約において、対オーストリア戦をフランスに支援してもらう代償として、サヴァイヤとニースを割譲することを決めていた。
このため、ナポレオン3世、中部イタリアを併合したければ、サヴォイヤとニースをちゃんとくれよな!となった。
カブールはこれを仕方なく受け入れる。
両シチリア王国占領
→1860
シチリア島でブルボン朝に対する農民反乱が起こった。
青年イタリア出身の英雄ガリバルディは統一に向けて、反乱を広げようとする。
ジェノヴァで義勇軍を集めて、千人隊(赤シャツ隊)を結成。両シチリア王国(シチリア・南イタリア)を征服した。
ティアーノで国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と会見。
ガリバルディが征服した両シチリア王国をサルデーニャ王に献上した(併合)。
イタリア王国成立
→1861
イタリア国王ヴィトーリオ=エマヌエーレ2世
→初代国王、在位1861~78
→首相カヴール
残るはヴェネツィアと教皇領だ。
ヴェネツィア併合
→1866
普墺戦争【プロイセン=オーストリア戦争】でプロイセンと同盟。
プロイセンが勝利して、ヴェネツィアを併合。
ローマ教皇領占領
→1870
普仏戦争【プロイセン=フランス戦争】でフランス軍の撤退したローマを占領。併合へ。
その後、都をローマに移した。
課題
●未回収のイタリア
南チロル・トリエステ・イストリアなどはオーストリア領のまま。
●「ヴァチカンの囚人」
教皇ピウス9世はイタリア王国にローマをあげる気はなかった。「ヴァチカンの囚人」と自称してイタリア政府を承認せず。
→1929年のラテラン条約まで
●南北問題
北部→近代化・工業発展
南部→農業地域
産業格差は拡大した。
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