宗教改革の先駆者ウィクリフとフス
ウィクリフとフスはルターたちに先んじて、教皇権や教会制度を批判したことから、宗教改革の先駆者といわれる。
【ウィクリフ】
→1320頃~84
イギリスのオクスフォード大学神学教授。カトリック教会の腐敗と堕落を批判し、「聖書に書いてあることだけが正しい」という聖書中心主義を提唱。
教会大分裂の中、イングランド教会の教皇からの独立を主張して、聖書を英訳。
【フス】
→1370頃~1415
ベーメンのプラハ大学進学教授。ウィクリフと同じく、聖書中心主義を提唱し、聖書をチェコ語訳。
●コンスタンツ公会議
→1414~18
神聖ローマ皇帝ジギスムントが招集し開いた公会議。教会大分裂終結。一旦、分かれた教皇を全員やめさせて、新しい教皇を選出。ローマ教皇を正統とする。
教皇権を回復させるために、異端の取り締まりを強化。
ウィクリフとフスを異端とする。フスは火刑へ。
●フス戦争
→1419~36
ベーメン教会は教皇からの独立を主張。この主張が当時ベーメンでのチェコ民族運動に影響し、教会だけではなくベーメンも独立すると主張。
フスを火刑にしたジギスムンドがベーメン王になると、フス派住民の反乱がおこる。フス戦争へ。
16年続いた戦争で王権は弱体化、ベーメンでは貴族が強化された。
ルターの宗教改革
【背景】
●教会革新運動
14世紀、宗教改革の先駆者であるウィクリフ(英)やフス(ベーメン)がカトリック教会を批判(→教皇権を否定)、フスが火刑になる。
●まとまらない神聖ローマ帝国
諸侯や都市による皇帝からの自立要求。
力関係としては皇帝権が弱く、諸侯の方が強い。教皇権も強い。
皇帝 < 諸侯 = 皇帝 < 教皇
ということになる。
なので容易に教会が搾取できる状況にあった。教皇に搾取されるドイツを「ローマの牝牛」と呼ぶ。
●人文主義者の活躍
ルネサンスでのペトラルカ・ボッカチオ・エラスムスらの古典研究による批判。原始キリスト教への復帰。
【宗教改革】
教皇レオ10世(メディチ家出身)がサン=ピエトロ大聖堂の改築のため、資金集めとして贖宥状(免罪符)を販売した。
これに対して、
ヴィッテンベルク大学神学教授マルティン=ルターが、95か条の論題を提示(1517)→贖宥状を批判
活版印刷術により『キリスト者の自由』を出版(1520)
主なルターの主張(①~③)
①聖書第一主義・・・よりどころは聖書のみ
②信仰義認説・・・「人は信仰によってのみ義とされる(救われる)」
③万人祭司主義・・・聖職者を否定
↓
これでルターは教皇により破門される。カール5世によりヴォルムスの帝国会議に召喚される。説の撤回を迫られるが拒否して、「法の保護外に」置かれた。
ザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれてヴァルトブルク城に保護される。
ここで『新約聖書』のドイツ語訳を行った(1522完成)。活版印刷術によって大量にドイツで普及したことから近代ドイツ語となる。
【影響】
●ドイツ農民戦争
ドイツ農民戦争(1524~25)はルターの影響を受けた西南ドイツ農民が 農奴制や十分の一税廃止などを要求して蜂起した戦争。
トマス=ミュンツァーが「貧しいものは神の声を直接聞ける」とか「幼児の時の洗礼は無効である(再洗礼派)」など主張して指導。農民戦争はドイツの3分の1にまで広がる。戦闘も激化。
↓
当初ルターは同情的であったが、後に諸侯による弾圧を支持。
農民戦争は各地の諸侯に鎮圧された。
●皇帝カール5世vsルター派諸侯
皇帝カール5世はイタリア戦争でフランソワ1世と争い、第1次ウィーン包囲(1529)によりオスマン帝国のスレイマン1世との争いで苦境。外敵と戦には諸侯の協力が必要なため、期限付きでルター派を容認した。
しかし、イタリア戦争で優位に立つと再びルター派を禁止する。
[box class=”pink_box” title=”プロテスタント”]ルター派諸侯たちが皇帝に対して抗議(プロテスト)したから、ルター派のことをプロテスタントと呼ぶようになる。のちに「新教」全体への呼称となった。[/box]
危機感を持ったルター派諸侯はシュマルカルデン同盟結成 (1530) 。 最初の宗教戦争であるシュマルカルデン戦争(1546~47)が勃発した。
アウクスブルクの和議(1555)でカトリック(旧教)と新教派は和解。
→ルター派のみ公認(カルヴァンは不可)
→カトリックかルター派かの宗教選択権が諸侯や都市に与えられた(個人の選択権は否定)
この結果、ルター派の領邦では領邦教会制がとられた。
[box class=”pink_box” title=”領邦教会制”]領邦ごとに教会が統治に組み込まれたもので、諸侯(領邦君主)が領内の教会の首長となり監督する体制[/box]
ドイツは宗教的にはバラバラになってしまった。さらにそれが政治的な分裂も促した。
ルター派はドイツ北部、北欧はデンマークやノルウェー、スウェーデンに広まっていった。
ツヴィンクリの宗教改革
ツヴィンクリはスイスのチューリヒで宗教改革を行った(1523)。
エラスムスとルターに影響を受ける。贖宥状を批判して、聖書第一主義の立場を取った。
後にルターと決別して、カトリック諸州(保守派)との宗教戦争で戦死した(1531)。
カルヴァンの宗教改革
フランスの宗教改革者でスイスに亡命した。
→フランスは基本カトリックのエリアだから、反ハプスブルクエリアであるスイスの方が活動しやすい。
●カルヴァンの活動
→『キリスト教綱要』をバーゼルで出版(1536)。
→ジュネーヴに招かれて改革運動を開始(1541~)。神の絶対主権を強調して厳格な禁欲主義、奢侈(ぜいたく)の禁止。神権政治を実施。
→カトリックの司教制を廃止して、長老制度をつくる。牧師とそれを補佐する信者代表の長老が教会を運営。改革派教会を政治権力から自立させた。
●教説
福音主義(聖書第一主義)に基づく予定説。
人間が救われるか否かは、神によってあらかじめ定められており、人間の意思や善行とは無関係。
→救われる方の人間だと信じて生活しなさい。「自分の職業は神から与えられた天職として真面目に働きなさい」禁欲的な職業倫理を説く。
●布教
ジュネーヴ大学を設立(1559)し、プロテスタント神学を研究。
→各地に宣教師派遣、ジュネーヴはプロテスタンティズムの総本山となる
●カルヴァン派
商工業者は世間からいい印象じゃあなかった。
なぜならカトリックにおいてお金は堕落を招くものだから。お金を貯めることは私利私欲の行為とされる。
しかし、カルヴァンは「自分の天職に真面目に取り組んだ結果の利益は、神の意思」であるとして営利・蓄財を認めた。
このことで商工業が盛んなイギリスやフランスの西部エリアを中心に、カルヴァン派が急速に広まる。
ゆくゆくカルヴァン派は資本主義発展に貢献する思想ともなる。
関連:マックス=ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
●各地のカルヴァン派の呼び名
- フランス → ユグノー
- イングランド → ピューリタン【清教徒】
- スコットランド → プレスビテリアン【長老派】
- オランダ → ゴイセン
対抗宗教改革
ここで、旧教・カトリック側の対抗宗教改革を見てみたい。
【トリエント公会議】
→1545〜63
皇帝カール5世がルター派(新教)とカトリック(旧教)両派の調停のため、北イタリアのトリエントに召集。
ただ、ルター派は参加しなかった。理由は「公会議など聖書に書いていないから」だ。そのため、カトリックのみの会議となった。
●内容
・教皇至上権の確認
・禁書目録作成 → ルターなど反カトリックの書物を読むことの禁止
・宗教裁判【異端審問】の強化 → カトリックの教義に反するものを弾圧
●結果
・新旧両派、双方による魔女狩りが増加した。
・宗教戦争が起こる exユグノー戦争、オランダ独立戦争、三十年戦争
・カトリックに復帰 → 南ドイツ、ポーランド、オーストラリア、フランス、ネーデルラント南部
●イエズス会(ジェズイット教団)
パリでイグナティウス=ロヨラ(スペイン人騎士)やフランシスコ=ザビエル(スペイン)らが結成(1534)。
イエズス会の特徴
- 軍隊的規律
- 教皇への絶対的忠誠
カトリックの布教活動を進め、新教打倒を図る。
1540年には教皇パウルス3世の認可で、各地に学校を設立。高等教育を行った。
功績としては南ドイツを回復したことや、ラテンアメリカ・アジアへ宣教師を派遣したことが挙げられる。
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