総裁政府
→革命の第5段階
1795年憲法【共和国第3年憲法】制定、総裁政府が成立した。
- 制限選挙復活
- 二院制
- 5人の総裁
主導権はもともとのジロンド派。
反乱起こる。
王党派(右派)の反乱。絶対王政まで戻すべし!
また、バブーフ派(旧ジャコバン左派)が私有財産の廃止をめざし、反乱計画を建てた(バレて陰謀まで)。
国内の反乱にとどまらず、国外も敵ばかり。
農民たちは状況を打開する強い指導者を求めた。
ナポレオンの登場である。
ナポレオンは王党派の反乱を鎮圧して有名となった。
●イタリア遠征(1796~97)
オーストリアを破り、カンポ=フォルミオの和約を結ぶ。
第1回対仏大同盟崩壊。
→大西洋側はイギリス、大陸側の中心国はオーストリアのため、オーストリアが破れると包囲網は崩れる
●エジプト遠征(1798)
イギリスに挑戦。イギリスとインドを結ぶ航路を分断しに行く。
ピラミッドの戦い(陸上)で勝利するも、アブキール湾の戦い(海上)で大敗。イギリス海軍のネルソンが活躍。
フランス陸軍は孤立。ナポレオンはフランスへ逃亡。
これをみて英首相ピット、第2回対仏大同盟結成(1799~1802)。
フランスは再び敵国に囲まれるという状況になったが、国民の期待は続く。
ナポレオン、ブリュメール18日のクーデタ(1799.11.)で、総裁政府打倒。
→フランス革命が終結して、統領政府が成立
統領政府
統領政府(1799)
ブルジョワジーと農民の支持
第一統領ナポレオンの独裁体制である。
●ナポレオンの政策
・フランス銀行設立
→中央銀行を作り、国家財政の安定、国内経済の安定につなげた
・宗教協約(コンコルダート)
→フランスにカトリックを復活させた。
ローマ教皇と和解。ピウス7世との間で協約が結ばれた。
フランスはもともとカトリック国だから、革命中のジャコバン派がつくった理性崇拝から元に戻したということになる。
・アミアンの和約(1802)
→1800年、第2次イタリア遠征で、オーストリアに勝利。イギリスと休戦。第2回対仏大同盟解体。
10年ぶりの平和。ナポレオン、国民投票で終身統領に就任(1802.8.)。
・民法典(ナポレオン法典)制定(1804)
→革命の成果がまとめられた。
- 私有財産の不可侵
- 法の前の平等
- 契約の自由
第1帝政
国民投票で皇帝即位(ナポレオン1世)
国民投票による、第1帝政(1804~15)
これを受けて、ハプスブルク家のオーストリアやロシアは反発。皇帝と名のっていいのは我々だけでしょ!
英首相ピットは状況を利用して、
第3回対仏大同盟結成(1805)!
●大陸支配
ナポレオンは毎回対仏同盟をつくる英ピットを潰したい。英上陸作戦を計画。
しかし、
・トラファルガーの海戦(1805)
ネルソン率いる英艦隊に敗北。
(ネルソン自身は狙撃され戦死)
ナポレオンはイギリス攻めをあきらめ、大陸制覇に集中へ。
・アウステルリッツの戦い(三帝会戦、1805)
3人の皇帝による戦い
- フランス皇帝ナポレオン1世
- 神聖ローマ皇帝フランツ2世
- ロシア皇帝アレクサンドル1世
→ナポレオンが勝利して、第3回対仏大同盟解体
プレスブルクの和約でイタリア支配を認めさせた。
ライン同盟結成(1806)
→西南ドイツの16領邦で結成、同盟内でナポレオンの民法典を施行
神聖ローマ皇帝フランツ2世は皇帝位を辞退し、神聖ローマ帝国が消滅した。
・大陸封鎖令(ベルリン勅令、1806)発布
大陸諸国と英との通商を禁止して、経済面からイギリスを弱らせていく。そして、フランス産業の市場独占。
・ティルジット条約(1807)
→プロイセンには領土削減と賠償金を課せた。プロイセン領だったポーランドにはワルシャワ大公国が成立
→ロシアに大陸封鎖令への協力要求
・プロイセン改革
首相のシュタインやハイデンベルクの近代化政策。改革を行いフランスに勝つ機会を伺う。
- 農民解放
- 軍制改革
- 教育改革
哲学者フィヒテの連続講演「ドイツ国民に告ぐ」で、国民意識高揚。
ナポレオンの没落
・ヨーロッパ諸国におけるナショナリズムのめざめ
フランスが「祖国は危機にあり」と宣言して、民衆から兵士を集めたことが、フランス人に祖国意識が芽生えるきっかけになった。
ナポレオンもその意識を利用して大陸支配を広げていったのだが、支配された国々もまた影響を受けて自由主義や国民主義が芽生えることになる。
他国の祖国意識、それはドイツ人の祖国ドイツやスペイン人の祖国スペインというイメージだ。
皮肉にも自分たちがよりどころにしている考え方によって、反発を受けるようになってしまった。
各地でナポレオン支配への反発が起こる。
スペイン反乱【半島戦争】ではゲリラ戦に苦しむ。
・ロシア遠征(1812)
ナポレオンは大陸封鎖令を無視したロシアへ制裁しにいったが、冬将軍に負けて失敗。
なぜロシアは封鎖令をやぶったか?
ロシアはイギリスに穀物を輸出して、生活必需品を輸入していたのに、それができなくなった。
フランスに製品を売られるが、穀物を買ってくれない不満。
さらに、
制海権をにぎるイギリスは対抗措置として、逆封鎖をした。これはヨーロッパ諸国とアメリカ大陸の貿易を妨害だ。
経済が立ち行かなくなるロシアはついに大陸封鎖令を無視。イギリスとの貿易を再開したというわけだ。
・ライプチヒの戦い(諸国民戦争、1813)
vsプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍(第4回対仏大同盟)
→ナポレオン敗退
・退位(1814)
エルバ島に流され、ブルボン朝のルイ18世が復古王政した。
ウィーン会議「会議は踊る」(1814〜)
・「百日天下」
ナポレオンはエルバ島脱出(1815)
→皇位復位へ
これに対し、イギリス・オランダ・プロイセンが連合軍を結成(第5回対仏大同盟)
ワーテルローの戦いでイギリス軍司令官ウェリントンに敗北。
→セントヘレナ島へ流刑
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