『世界史リブレット人㊼大航海時代の群像エンリケ・ガマ・マゼラン』を読んだ【まとめ&感想】

世界史
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大航海時代はなぜ起こったのか?

こう問われたなら、真っ先に思いつくことは経済的要因だろうと思っていた。

例えば、香辛料価格のことだ。香辛料貿易は中東圏のムスリム商人を経由しているから価格が高い。

どうにかそれらを経由しないで、直接原産地から仕入れをすることはできないか。

こういった経済的な要因が大航海時代がはじまるきっかけだと思っていた。

でも『大航海時代の群像』を読めば、それだけじゃあないことが分かる。

筆者は大航海者という「人」に目線をおとして、主に大航海時代の経済「外」的要因を中心に説明をしてくれる。

『世界史リブレット人㊼大航海時代の群像エンリケ・ガマ・マゼラン』ってどんな話?

(出典:amazon)

合田昌史『世界史リブレット人㊼大航海時代の群像エンリケ・ガマ・マゼラン』(2021)山川出版社

この本の舞台は大航海時代の初期~中期のポルトガル王国。主に経済「外」的要因に重きを置いて、大航海者たちを説明してくれる本だ。

大航海者たちエンリケ・ガマ・マゼランはどのような思いをいだいて大洋をわたったのだろうか?

こんな問題提起をもとに話が始まっていく。

彼らの思いは2つの心性としてあらわれる。

一つは、宗教性の強い対外進出の心性。もう一つは、ステイタスの向上をもとめた対外進出の心性だ。

この二つを「マグリブ」と「騎士修道会」そして隣国スペインの動向を手掛かりに探っていくことになる。

※マグリブ・・・「西」の意、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを指す。

この記事では、『大航海時代の群像』で中心になっているこの2つの心性を知る上で重要だなぁ~と思った部分を自分なりにまとめてみた。

ただ本文中ではどちらかというと、エンリケは宗教性よりで書いてあり、ガマ、マゼランはステイタスよりで書いてあるのでそれにそっている。

まずはポルトガルの大航海時代の背景やきっかけから書いてみた。

ポルトガルの大航海時代の背景やきっかけ

時は14世紀前半、ポルトガルを含むイベリアの国々ではレコンキスタが進展していた。この時点で、すでにイスラムを打つためジブラルタル海峡越えの機運が高まっていた。

しかし、あることが起こり中断されてしまう。

ペストの襲来と戦争だ。

戦争に関して、

ポルトガルは隣国のカステーリャと王位継承をめぐり戦争になった。

さらにイングランドも王位継承を主張してイベリア半島に乗り込んでくる。

イングランド+ポルトガル VS カステーリャ+フランスとなった。これは英仏百年戦争の南部戦線化だ。

ポルトガルはカステーリャに負けてしまい、国土は荒廃、民衆の暴動も発生してしまう。

3回目の戦いのあと、カステーリャは和約の条件にポルトガル国王フェルナンド1世の嫡子ベアトリスと婚姻を要求。フェルナンド1世が死去すると併合の動きをとってきた。

これに対して、ポルトガル都市民はNOを突き付ける。疫病や戦争の苦しみ、ベアトリスの嫡出を疑ってのことだった。ポルトガル国内で騒乱は拡大。4回目の対カステーリャ戦が開始した。

これは王朝革命への導火線ともなる。

担ぎ出されたのが、前々王ペドロ1世の庶子で、アヴィス騎士修道会の総長ジョアンだった。都市民や中小貴族の支持を受けて、ポルトガル国王ジョアン1世(アヴィス朝創始)となる。

ジョアン1世はイングランド兵の支援を受けて、カステーリャの大軍をアルジュバロータで撃破する。ポルトガルは四度目にしてやっと勝利をおさめた。

しかし、

これは防衛線であり新たな領土は得られなかった。そのためジョアン1世は王になって間もなく、課題ができる。

戦いの場と土地が与えられない貴族の不満は内訌の種となりうる。そのエネルギーを吸収ないし放散させて国内統合を果たす方途は何か。

会田、p.18

考えられた方策は3つ。

  1. 貴族への給料増強
  2. 海外へ進出し、帝国に戦いの場と財源を求める
  3. 騎士修道会の国内化と貴族化

であった。

この②の部分が海上拡大であり大航海時代の始まりにつながる。

この海上拡大にはさらに2つの路線に分けられる。

  1. 「西の果て」モロッコにおける軍事的拡大
  2. 大西洋アフリカにおける商業的進出

である。

大航海時代の始まりは①モロッコへの軍事的拡大が起点で、②の大西洋アフリカにおける商業的進出は少し後となる。

モロッコへの軍事的拡大は港市セウタ攻略により始まった。

大航海時代の始まり=セウタ攻略(1415)

なぜ、セウタ攻略をしたのか?それは、貴族たちの内紛エネルギーを吸収ないし放散させる以外に、政治的要因も強い。

つまり、

マリーン朝の衰退と内乱に乗じ、かつカステーリャやアラゴンの機先を制して、海峡南岸に拠点を確保し、その周辺に新たな境域を設ける意図である。

会田、p.25

貴族側は王室の意図をどのように受け取ったか。

セウタ遠征の時点で参加した貴族は全兵力の1%に満たなかったが、やがて、ステイタスの向上がセウタに進出する動機になっていく。

セウタは軍事教練・武勇発現の場であり、従士が騎士への昇進、軍事行政職の取得も期待できた。一四三七年までにセウタに駐留し奉職した貴族はのべ二四六人にもおよんだ。

会田、p.26

【感想】

この大航海時代のきっかけのところが経済外的要因を知るうえで結構重要だと思う!

上記のような流れでセウタを「軍事教練・武勇発現」の場にしたことが、貴族の内紛エネルギーを吸収ないし放散させるためという目的に則していて、成功しているように見える。

これは都市民や中小貴族に王として担ぎ出されたことの恩返しも背景になっていると思う。

だが、これがのちのち貴族取り込み策ということでずぅーーっと続くイメージなんだよね。

モロッコ軍拡は不採算なままでずっと継続する。

読み進めていると、何でこんなことになっちゃったんだっけってことになる(笑)

そういう時にはじめのセウタ攻略の動機の部分が頭に残っていると、けっこうまどわずに済む感じなんだ。

というわけで、このきっかけの部分がけっこう重要だと思った。

エンリケ

もう一度海上拡大の2つの方向性を確認しておこう。

海上拡大が2つの方向性がある。それは①モロッコへの軍事的拡大と②西アフリカへの商業的進出だった。

筆者が注目に値するというのは、エンリケがモロッコにおける軍事的拡大(十字軍的遠征)の方に強い意欲を示していたことなんだ。

エンリケがなぜモロッコ軍拡にこだわったか?

それはセウタ攻略後、さらにモロッコのタンジェを攻略するかどうかの時、兄王ドゥアルテ1世に送った文書にあらわれてる。

「人が専念すべきは、神に仕えることと、自己・家門・国家の名誉をもとめることの二つである。マリーン朝のモーロ人に対する戦いはこの二つの課題を遂行する上で理想的な方法である。対異教徒戦が正しいことは教会によって確認されており、その正しさの理由をいちいち述べ立てる必要はない。フェズ王国は政治的に分裂しており、武器は不足し城塞の防備は弱体である。ゆえに征服は容易である」

筆者はエンリケ論には、十字軍精神が横溢(おういつ)しているという。

兄王ドゥアルテ1世は、隣国スペインがレコンキスタを完成しマグリブ地方へでてくることも意識し、タンジェを攻めることにした。

だが、失敗してしまう。

タンジェ遠征の失敗でモロッコ軍拡路線はブレーキがかかる。ここで初めて、海上拡大策のもう一つ、大西洋アフリカへの進出が本格化するわけなんだ。

ただ、筆者は注意が必要といっていて、それは、、

モロッコ軍拡が国家事業なのに対し、大西洋アフリカへの進出がなかば私的事業として行われたことをあげている。

さらに、航海は関心があるものすべてに開かれていたが「当初はあまり収益が期待できなかった」とのことなんだ。

潮目が変わったのが1441年の「奴隷狩り」の始まりである。

だが、金貿易やサトウギビ栽培に関してはいまいちだった。

金貿易の発展はエンリケ没後20年あまりあと。

また、サトウキビ栽培についても、砂糖の輸出量がヨーロッパ随一の規模に達し国家の財政に寄与するのはやはり、エンリケの没後15世紀末~16世紀初頭のことだった。

一方で、海上拡大の担い手の立場から見ると、社会的昇進の事例がみられるのは重要であるとする。

エンリケの死まで(1460)まで発見の遠征を率いた指揮官の8割がエンリケの家臣だった。成果を上げた家臣らは騎士に叙された。

【感想】

エンリケの時代、経済的進出が始まるわけだけど、まず最初にくるのはモロッコ軍拡ということや、当初、商業的進出に利益が期待できなかったこと、実際しっかり利益があがるのはエンリケの没後、、、

というの話から、やっぱり、大航海時代が経済的要因だけで始まったわけではないことが分かる。

むしろ、エンリケに関していえば、ぜんぜん経済外的要因→宗教的なものでスタートじゃんと言い切ってしまいたいほどだ(笑)

ガマ

【背景】

ジョアン2世の治世(1481~1495)、海上拡大は中期に移行した。

国家に負担をしていたモロッコ軍拡にブレーキをかけ、エンリケ没後に停滞していた大西洋アフリカへの商業的進出を強化し、これを国家事業に格上げしたのである。

会田、p.55

即位後、ジョアン2世はギネー貿易の専有化に着手(1481~)する。

金貿易は王室の独占下におかれ、16世紀初頭にかけて最大で年間700キログラムの金がリスボンにもたらされた。

※ギネー・・・ギニア

また、ポルトガル人によって、ヨーロッパに搬入された奴隷の数は1480~99年平均で約2200人に跳ね上がった。

1470年ごろ、ギネーの経済的価値は400万レアル程度とみられていたが、1480年代ギネー貿易を総括したリスボンのギネー館の総収入は5000万レアルを超えた。

これは、1473年時点における国内の歳入5200万レアルに迫る。

ようやく、帝国は大きく儲かるようになった。

筆者は、注目すべきはジョアン2世が、ギネー貿易の専有化に着手してまもなく、東回り航路を開く遠大な計画を立ち上げていたところをあげている。

ジョアン2世の企画には政治・軍事・宗教的動機が萌芽的に含まれていた。すなわち、プレスタージョンとしてのエチオピア皇帝と同盟を結び、カイロなど中東イスラーム世界の中核をたたこうというもので、この動機はのちにマヌエル1世によって強く押し出される。

会田、p.63

東回り航路を開拓するために、1480年代における組織的で周到な準備が行われた。それは、

  • カンとディアスの航海
  • コヴィリャンらの諜報活動
  • 天文学者による天文航法の案出

である。

あとは東アフリカ沿岸の港市でアラビア海の水先案内人さえ得られれば、インドへの海路は開設のめどがたっていた。

これがガマのインド遠征への前提となる。

【ヴァスコダガマ】

ガマ家とその近縁は、ヴァスコダガマの登場までに王室や王国内の3つの騎士修道会いずれとも関係を得ていた。

ガマ家はもともとアヴィス騎士修道会のつながりが強い。また、ガマの父はエステヴァンはサンティエゴ騎士修道会の騎士であった。

母ジョアン・ソドレの家柄はキリスト騎士修道会とのつながりが強い。母方の叔父ヴィンセンテ・ソドレは王家の騎士となり、1501年頃にはキリスト騎士修道会の本拠トマールの城代となった。

1497年、ガマは初のインド遠征隊の総司令官に任命される。ガマは王権を代表する外交官であった。

筆者は、彼が総司令官の任命まで相当のステイタスを得ていたことは注目してよいという。

ガマは第1回の航海から帰還したあと、英雄として様々な恩賜を与えられた。だけれども、期待した爵位がなかなかものにできずガマは一計を講じた。

国王マヌエル1世に対して、スペイン王へ忠誠を移すという選択肢をマヌエル1世に示唆した。1519年、マヌエル1世はガマにヴィディゲイラ伯爵位を与え、18人目の高位貴族とした。

筆者は、大航海時代のポルトガルで下層騎士が一代でここまでのぼりつめた事例は他にはない。このような恫喝ともいえる手法がまかり通ったのは、中世替えのハードルが高くなかった、という。

【ガマに続く海外進出の担い手たち】

ガマに続く、海外進出の担い手たちも、騎士修道会員が多く、インド領への赴任前から騎士修道会員であることが、インド領における出世の条件だった。

特に国王を総長にいただくキリスト騎士修道会の優位は明らかで、他の騎士修道会からの移籍も珍しくなかった。

【感想】

ガマがなかば脅しのような手法で国王に一計を講じた姿、非常に野心的にみえた。

異例の出世はまさに身分制社会におけるステイタスの向上をもとめた貴族の姿であり、鏡だなと。

ガマに続く貴族たちが、出世のしやすいキリスト騎士修道会の方へ移っていくのもまたそうだと思う。

マゼラン

マゼランはもともとポルトガル王に仕えていたが、のちに「変節」してスペイン王のもとにアジア遠征隊の総司令官として太平洋横断の大航海をなす。

この「変節」した理由は2つ。

①モルッカ諸島がスペイン領の有利な場所にあるということにくわえ、

②より直接的な理由が国王マヌエル1世からの冷遇だった。

マゼランはモロッコ軍拡の一部であるアザモール遠征に武器や軍馬を自弁して参加していた。その時に膝に傷を負い、軍馬を失った。

それまでの長い王室への奉仕のために、一度ならず負傷したことを訴えて廷臣手当の加増100レアルを国王に要求した(課象要求分は現給の8%)。

だが、マゼランを嫌っていたマヌエル1世はこれを退けた。

マゼランは国王に「しかるべき処遇を受けられるところへ赴く」許可得て、ポルトガル王宮を去った。

筆者が看過できないというのは、わずかばかりの廷臣手当の増額が拒否されたことは奉職貴族にとってそれは経済ではなくステイタスにかかわる問題である、としている。

傷ついた軍人はどのような経緯で隣国に招かれたか。

ポルトガルの有力な貴族ブラガンザ公の弟アルヴァロという人物がいて、その配下にポルトガル人バルボサがいる。このバルボサがスペインのセビーリャでマゼランの受け入れを担った人物だ。

彼の娘にマゼランが持参金付きで結婚した。

母国で縁のなかったマゼランがスペインでサンティアゴ騎士修道会の一員となり、間もなくその階段を上ることができたのは同会の受領騎士であったバルボサとの関係なくしてあり得なかったとしている。

以上、ポルトガルの大航海時代のきっかけと、大航海の担い手3人を宗教的心性とステイタスの向上を求める心性を中心にまとめてみた。

終わりに(感想)

読んでいる途中で「なんでそこそんなこだわるのよ、もうそれはやめとこうよ」と思ったところがある。

それはモロッコ軍拡だ。

この記事はいちおう主題にそってまとめていったつもりなんだけど、本を読んでいると
モロッコ軍拡がどれだけ経済的には不採算だったかが、かなり詳しく書いてある。

どこにお金がかかるのかは特に貴族への給料系が大きい。

途中で奴隷や金、さとうきびなどの経済面で儲かっても、それを軍拡事業に使ってしまう。

なんでそうなるかというのは、やっぱり宗教的な側面が大きくて、その時々の国王の十字軍精神とかがすごく反映しているわけなんだよね。

王族のエンリケしかり、アフォンソ五世、マヌエル1世は十字軍精神が強い。

筆者はイベリアの海上拡大を中世的拡大(=レコンキスタ)の延長といっており、それが近年有力視される「後期十字軍」な考え方に共鳴するといっている。

※後期十字軍・・・十字軍がアッコン陥落で終わりじゃなく近世まで続いていたとする説

まさにそうだなぁと感じた。

今回、取り上げたのはほんの一部、本書は100ページほどながらかなり読み応えある(ぜーはー)。

興味をもった方はぜひ一読してみてみてはいかがだろうか(^ ^)

以上。

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