レヒフェルトの戦い(955)でマジャール人を破り、神聖ローマ皇帝の起源ともなったオットー1世。
彼が始めた帝国教会政策とはいったいどんな政策なのか。
実はこの政策って魔法みたいなんだ。
帝国教会政策とは?わかりやすくまとめてみた
当時、ローマ=カトリック教会の権威は西ヨーロッパ全体に及ぶようになっていた。
この時すでに、教皇を頂点としたピラミッドが出来上がっている。
それはすなわち、教皇、大司教、司教、司祭・修道院長という聖職者の序列構造だ。(階層性【ヒエラルキー】という)
オットー1世は高まる教会の権威を帝国統治に利用しようと考えた。
どうやって教会を利用したのか?
ここで、カール大帝の統治方法が関係する。
大帝は地方部族の反乱を防ぐために、伯を配置していた。
そして、現地、部族と結びつかないよう、世襲を禁止。
この政策は圧倒的な武力を背景に成立してたんだけど、オットー1世の時代では難しかった。
そこで考えたのが「伯」の代わりに「聖職者」を置くということ。
聖職者はキリスト教に仕えるため、妻を持つことができない。
ってことは、子供をもてない。
自動的に世襲制が禁止されているのと同じだね。
オットー1世は自分の思い通りになる者を上位聖職者(=大司教・司教)に任命。
つづいて、教会領を与えて、公爵領のまわりに配置する。
さらに、伯爵領の権能も与えた!
伯爵領の権能例↓
- 関税権
- 市場権
- 貨幣鋳造権
こういった権能によって、教会領は実質、伯爵領となっていくんだ。
「見た目が聖職者だけど、実は伯」みたいな。
これはもう封建領主だよね(笑)
聖職者は土地や財産の寄進も受けて、聖界諸侯となっていく。
これは、大公にとってはやっかいだ、聖職者が相手ではうかつに絡めない。
こうして、オットー1世は、大公の反乱を防ぐ、帝国教会政策を成立させたというわけなんだ。
帝国教会政策にいたるまで
カール大帝の時
フランク王カール大帝の統治方法から、みておくと、
カール大帝は征服した地方部族が反乱を起こさないよう、ある仕組みを作った。
それは「伯」を配置するということ。
具体的には、、
地方の公爵領を解消して、州【管区】とする。そして、州の長官に伯を任命した。
伯は現地の部族と結びつかないよう、世襲を禁止される。
この方法はカール大帝の圧倒的な軍事力のもと成立したんだ。
ところが、、
カール大帝がなくなると、当然、この体制がゆるんでしまう。
ダメだっつったのに、伯は世襲しちゃった。
しかもせっかく、公爵領を解消したのに、伯爵領が集まって、また新たな公爵領ができてしまう始末。
そこで、オットー1世の父王ハインリヒ1世は、新しい統治方法を考えた。
父王ハインリヒ1世の政策
実際、父王ハインリヒ1世も、カール大帝の死後ゆるんできた体制から、のし上がってきた公爵、ザクセン公であった。
だから、大帝と同じ方法では地方統治はできない。
じゃあどうしようか。
そこで、考えたのが「血族」を利用する方法だった。
それは、大公の地位を自分の一族に与えて、各地に配置しよう!ということ。
血族なんだから、現地の部族と結びついて、反抗することはない!
しかもこれは、国家統一への道でもあるんだ!
こういったハインリヒ1世の政策は、オットー1世の代でも引き継がれ、同様の政策を行なっていたんだ。
ところが、、
うまくいかない。。
血族であっても、結局、地方の部族と結びついてしまい、王権をめぐって反乱も起こした。
オットー1世は政策の転換をするしかなくなってしまったんだ。
さあ、どうしようかなと、、
そこで考えたのが、教会組織を使う方法だ。
これで1段落目の帝国教会政策にいたるわけなんだ。
まとめ
今回、主に菊池良生さんの『神聖ローマ帝国』を参考文献としてまとめた。この本、とても表現が面白くて、歴史書の堅い感じがあまりない。
そして、帝国教会政策の驚く仕組みを知った。
特に「伯の世襲禁止」を「聖職者の妻帯禁止」に置き換えたところが、すごい魔法だと感じたんだよね(笑)
ところで、聖職者を任命する権限は別名、聖職叙任権だ。この、聖職叙任権をめぐって、ゆくゆく皇帝と教皇がバトルしていくことになるが、、、
それはまた別の機会にゆずるとしよう(笑)

参考文献
- 菊池良生『神聖ローマ帝国』2010、講談社
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