ビザンツ帝国(世界史)
初期
成立はローマ帝国東西分裂(395)。テオドシウス帝が亡くなり、長子のアルカディウス帝がローマ帝国の東半分を相続。コンスタンティノープルを都とする。
ユスティニアヌス大帝(位527~565)
●外征
ゲルマン人から領土を奪い返し、旧ローマ帝国領を回復しようとする。
ヴァンダル王国・東ゴート王国を滅ぼし、西ゴート王国からはイベリアの一部を奪還。地中海世界を再統一。
ササン朝のホスロー1世と抗争。
●内政
『ローマ法大全』をトリボニアヌスらに命じて編纂。
ハギア(セント)=ソフィア聖堂をコンスタンティノープルに建設。
中国から養蚕技術を導入、養蚕業や絹織物業を行う。また、開墾や植民により農業生産が増大。このことで経済的にも発展、コンスタンティノープルは地中海交易の中心地としても繁栄。
ユスティニアヌス帝の死後、バルカン半島にはスラブ人やブルガール人(トルコ系)、アヴァール人が侵入、北イタリアはランゴバルド人が侵入して、建国した。
中期
ギリシャ化が進展した。
支配地域の大半がギリシャ人地域。教会のミサもギリシャ語で行われたため、ギリシャ正教会と呼ぶようになった。皇帝は政治と宗教(ギリシャ正教)両面の最高権力者であった。
ヘラクレイオス1世(位610~641)
●外征
ササン朝とシリア・エジプトをめぐって抗争
⇒単性論の信者が多いため不安定。
ササン朝とアヴァール人を撃退するが、同じころ、ムハンマドがイスラーム教を開き、その後瞬く間にシリア・エジプト・メソポタミアを奪われる。
●改革
ヘラクレイオス1世は軍管区制(テマ制)と屯田兵制を実施して支配を安定させた。
→軍管区制(テマ制)
軍管区制とは、帝国をいくつかの軍管区に分け、その司令官に軍事と行政の権限を与える制度。
もともと、行政は属州総督、軍の指揮は将軍(司令官)が握っていた(ローマ帝国時代と同じ)が、それを統一した。イスラーム勢力に対抗して軍事力強化となっていく。
→軍管区では屯田兵制を実施
小農民やスラヴ人に土地を与えて兵役の義務を課す。あるいは、兵士に対して土地を与えて兵役を負わせる制度。
屯田兵制のねらいは、大土地所有の抑制と農村が復活して徴兵・徴税制度の整備できるようになること。
軍管区制は10世紀に完成。
しかし、その後再び貴族が農奴を使って大土地所有するケースが広がる。
→ギリシア語を公用語に(コイネー化)
以降、ビザンツ帝国と呼ばれるようになる。
領土縮小
バルカン半島北部にスラヴ人が南下。
ブルガール人がブルガリア帝国を建国。
レオン3世(位717~741)
→聖像禁止令発布(726)
これにより東西教会の対立激化。
当時、ビザンツ帝国では教会がイコン(聖画像)を崇拝。これは『旧約聖書』の「偶像崇拝の禁止」に違反になるとした。偶像崇拝を禁じるイスラーム教徒が攻めてくるのは、神が帝国に天罰を与えている証拠と考えた。そこで聖像禁止令を発布。
843年に禁止令解除。
中興
マケドニア朝(867~1056)
バシレイオス1世が南イタリアとクレタ島、小アジアなどをイスラーム勢力から奪回。バシレイオス2世はバルカン半島で自立していたブルガリア帝国を滅ぼす。再び帝国の領土に編入。
しかし、東西教会の完全分離(1054)やノルマン人の侵入により南イタリア喪失。ブルガリアでもまた反乱。
後期

プロノイア制導入(11世紀末~)
大土地所有が進展し、自由農民の没落進む。屯田兵制が保てなくなっていく。
そこで、皇帝アレクシオス1世は、軍役奉仕と引き換えに、有力な貴族や将軍たちに国有地の管理を承認した(プロノイヤ制)。
以降、封建化が進む。
マンジケルトの戦い(1071)
セルジューク朝のアナトリア進出。
アレクシオス1世はローマ教皇ウルバヌス2世に救援要請。
第4回十字軍
→コンスタンティノープル占領、ラテン帝国建国(1204~61)
一方、ビザンツ帝国はアナトリアに亡命政権ニカイヤ帝国を樹立した。のちにコンスタンティノープル奪還・再興する。
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